非寛解から始める骨髄移植(20代)

奮闘記になるかダラダラになるか未知数です

非寛解から骨髄移植 最終日

最終日といっても退院は明日ですが。退院前にも書こうと思っているので、病院内で各最後の記事は明日が最後になりますね。もう入院しないので!

朝の採血の結果が出るまで確定ではなかったので、お昼頃にこの記事を書き始めています。

骨髄移植を目指して入院したのが4月の初旬。5月半ばに一時退院が二泊三日。

大体三ヵ月近く入院してたってことになるなぁ。本当に長かった。

最終日なのでいろいろ振り返って書いていこうと思う。

書きなぐって書いているので、自分の為の備忘録って感じで文章が凄い適当で読みずらい文となっております。ご容赦ください。

入院初日は大変だったなぁ、10時に病院にいって手続きして移植病棟の二枚扉。

自動ドアが二枚あるんですよ。なんか閉じ込められるてる感凄い。

部屋に荷物置いて、パジャマに着替えて…熱計ったら緊張のせいか37度5分こえてて、PCR検査受けてる間、相談室に一時間半待たされて…。

で、CT取ったり、諸々検査して夕方。先生から抗がん剤治療について聞かされて…。

色んな説明を受けるたびに不安でいっぱいになりながら自分で整理するしかなくて、いろんな同意書渡されて…。何から読めばいいのやらって感じでした。

抗がん剤使用の同意書、カテーテル手術の同意書はかなり不安になったなぁ。

中心静脈カテーテルって心臓付近に管入れるってことは、痛いやつじゃん…とか勝手に想像を膨らまして不安になったりもしていた。ただ、この時は2~3週間で一時退院でゆっくりできる予定だったのを憶えている。

マルク検査のすぐ後にカテーテル入れる施術が始まって、この時は割と落ち着いてたかな。マルクよりは痛くないだろとか思いながら…。実際痛みは麻酔の時だけだったし。ただ、施術の後にカーテンとかに血が付いてるのを見て、楽な作業ではないのだなと思ったり。カテーテルちゃんとは入ってるかの確認のレントゲンで先生たちが、

「浅いな…」とかいうからクッソ不安になったりした。

後、人生で一番髪を短く切った。これぐらい短い方が普段からも楽だな位の気持ちだった。実際シャワーとか快適になったし。そうそう、入院にあたって買ったパジャマのタグを二枚とも切り忘れてたのもあった。懐かしい。

当初はコインランドリー使おうと思ってたんだけど、前述した二枚扉の前にあるから使えなかったんだよね。移植病棟内しか行けなかったから。洗濯パックでいつもパジャマを洗ってくれた業者さんに感謝。

抗がん剤治療が始まって一日目は何ともなかった。二日目から吐き気が出だした。3~4回ほど看護師さんが事前に用意してくれた小さいピンクの入れ物に吐き戻したな。後、高熱が続いていた模様。38度前後をうろうろ。手も荒れてきていた。

後は長年の片頭痛にも悩まされていた時期だ。カフェインは帰ってからも極力取らない生活をする。

食欲不振が出てたのが抗がん剤3~4日頃からみたい。食欲…というかお腹は空くんだけど実際目の前にすると食べられない感じだった。

抗がん剤一週間目くらいから、

朝食 パン  昼食 素うどん 夜 おにぎり にメニュー変更してもらった。あと、毎食にアイス(スーパーカップミニ)を付けてもらってた。

一つ凄いのはおにぎりだ。おにぎりって言ったら塩がかかってたり、海苔が付いてるのをイメージするでしょ?

お椀の中二個、球体上になって出てくるだけなんだな~これが!

家から持ち込んだふりかけと味付け海苔がなかったらただのご飯だったよこれ。

栄養の点滴も入ってたかな~確か。記憶がおぼろげ。

抗がん剤開始から終了までがこんな感じだったかな。

抗がん剤終了して、カテーテルの管の部分が怪しい感じになっていたので取ることになった。輸血等は末梢から入れる感じでみたいな流れになった。

カテーテルが無くなって身軽になるかと思いきや、胸の痛みに襲われたんだったな。後下痢と頭痛。この時の胸痛が結構長く続いた。

胸痛はあったけど食欲はあってアクエリアスとかお菓子差し入れお願いしたりが多くなってる時期だ。

ご飯食べ終わるたびに胸痛で動けなくなってたな~そういえば。

抗がん剤投与から二週間。高熱が続いて解熱剤を定期的に投与することになる。

夕飯をおかゆに変えてもらってたはず。

不眠気味にもなってる時期で頭痛も凄かった。

副作用標を見ていたら脱毛始まる時期ってことでそろそろかなとか考えてた。実際に抜け始めたのは三週間後だった。

髪が抜けた。朝起きたら枕にびっしりと髪の毛がくっついていてびっくりした。驚きこそしたけど、ショックは小さかったなぁ。摘まんで引いてみて、お~抜ける抜けるとか逆に感動してたまである。

ストレスだったのはこの時期、熱と発疹でシャワーを浴びれない期間が続いたこと。

脱毛のタイミングと重なったせいで、シャワーには入って一気に抜ける毛は抜けきてってしまった方が楽なのにとずっと考えてた。

いざ入った時の抜け毛は凄かった、もう手に毛が付いてないタイミングがなかった。抜けてる感覚がないのに次々抜ける。でも一回じゃ抜けきらなくて結局5~6回目?位のシャワーのタイミングで抜けきった感じだったと思う。

抜け毛はいい面もあるのだ。髭が生えてこない。いや本当に。ハイパーメリットだね。

余りにも高熱が続くからCT取ったら…肺に影。ここ不安と熱で精神的に参って、初めて看護師さんに自分の感じてる不安を話したのを憶えてる。詳しい検査をしてカビですねといわれて…個室に移動した。

高熱が収まらず、心電図モニターを5日間くらいずっとつけてた。

最初は手に発疹がでて、少し痒いな程度だったのがすぐに全身に回った。

この症状に対抗するために行われた、今回の入院生活で最もつらかった。

ステロイドパルス療法

不眠。ソワソワ感。痒み。目を閉じていても脳がフル稼働している感覚。

自分に自分がどんどん締め付けられていく。

初めて助けを求めてナースコールを押した。

乗り越えられたのは間違いなく看護師さんたちのおかげ。一晩中交代で隣にいてくれた。感謝してもしきれない。

ここら辺から完全に心が折れ始めているのが家族lineから伝わってくる。

ステロイドパルスが終わっても不眠とソワソワ感が消えなかった。

特に嫌だったのはソワソワ感。足が勝手に震え、横になるのも辛い、やるせない感じが常に付きまとう。点滴で入れる睡眠薬等を使っても全く症状が改善されなかった。夜間、ナースステーションの中を一度見学させてくれた。ソワソワ感でそれどころじゃなかったけど、パソコンの椅子の座り心地が良くないと思った。深めに座れ過ぎて逆に座り辛く感じた。

夜の2時ごろにソワソワ感でどうにかなりそうな時にやけくそでお菓子を食べてたら、少しは気がまぎれることに気が付いて、夜にお菓子食ってたなぁ。

このころは血糖値の測定もしてた。毎食前と寝る前だったかな。

指先にパチンッて酸素計みたいなので穴を開けて(さほど痛くない)、血中から血糖値を測るんだけど200越えてるとインスリン注射。二回打ったかな~確か。毎回どの指がいいか聞かれるんだけど、もうどの指も跡が残ってるから後半は適当だった。

血小板がなかなか上がってこないのでレボレードを飲むことになったのがこの時期。

効果が出るのに二週間近くかかると言われる。

このころから一時退院が怪しくなってきて、より精神的に追い詰められる。

血小板を輸血したのに全く増えないのは、

  1. 体のどこかで消費している
  2. 入れた血小板が免疫で破壊されている

のどちらかで2で確定だと思うけど、病状の確定の為にはマルク検査で確かめなければいけないと言われ、マルク検査を行った。先生の言った通り、血小板の型があっていないと入れても免疫が破壊してしまう状態だったらしい。

しかし最大の問題はこの後だった。一週間後、白血球が爆上がりしたのだ。つまりどういうことか

寛解確定

もう精神的にボロボロになった。家族に電話して泣いた。辛い治療はなんだったのか。

今なぜ自分はこの状況に置かれているのか。世の中、病気のことでなんか悩んでない人ばっかりなのに、なぜ自分はこんなにも追い詰められているのか。なぜなぜ。そんな感情が渦巻いていた。

本当はすぐにでも骨髄移植に取り掛かりたかったであろう先生達に頼み込んで、なんとか二泊三日の一時退院の許可を頂いた。(看護師さん達も協力してくれた。頭が上がらない)

正直ここの一時退院がなければ、自分の中での気持ちの整理ができなかったとも思う。

家ではたくさん泣いた。自然と涙が出てくるのだ。不安、不安、不安。

一時退院前に非寛解での骨髄移植の1~5年の生存率のデータ、及び骨髄移植に伴う死亡率などの説明を受けていたからなおさら。

先生はデータは何年も前の物も含まれているから、実際の率は変動する。私は成功すると思っています。と明るい言葉を掛けてくれた。それでも不安でいっぱいだった。

家に帰ってからは朝昼晩、好きなものを食べた。

自分でも以外だったのは一時退院している最中、家でやろうと思ってたことの大半をやらなかったこと。何もする気が起きなかった。あれやろう、これやろうと思ってたのに、リビングでボーっとするのが一番安心できた。

たくさん泣いた。泣いて泣いて泣いた。でもよかったのかもしれない。泣いて気持ちの整理ができたから。今に繋がったのだから。

病院に戻る車の中では比較的冷静だった。覚悟…とは違う。前に進むしかない状況になると人は冷静になるのかもしれない。

入院の手続きをして、またあの二枚扉をくぐった時…凄いナーバスでした。

全然冷静じゃないや、思い返してみたら。普通にブルーだったわ。個室の部屋の構造が前回入院時より残念だったし。

後から聞いた話だけど、一回目入院した時に入っていた個室はナースステーションの目の前の部屋。個室にシャワーもトイレもついてなかった。それはトイレもシャワーも困難な状態に近い人が使う部屋ということでたまたま開いていたので自分が使うことができていたとのこと。

自分が再入院した時の個室はトイレはついていたがシャワーは付いていなかった。あとベッドの奥の座れる空間へ行くのに点滴棒が通れないというなかなかにハードな現実ですっごいブルーだった。

一時退院してどうだったと看護師さんからめちゃくちゃ聞かれた。

「とてもリフレッシュできました。ただ少し寂しくもなりました。」

と返していた。

荷下ろししてから、また戻ってきちまったな~って悲しくなった。

看護師さんが凄い気にかけてくれていてやっぱりすごい支えられてるなと思った。

基本室内で過ごすことについてのストレスはなかったかなぁ。だって廊下出れたところで、院内コンビニに行けないのは前回も同じだし、そもそも前回、カビが肺に入り込んだことが脳裏に刷り込まれていて、感染の恐れが少しでも高くなる場所に行きたくなかったってのが大きかった。

そういえば個室にいるときに37.5c以上の熱が一度だけ出たことがあって、その時はPCR検査を受けた後に結果が出るまで、看護師さんが青い簡素な防護服みたいなのを装着しての対応になって凄い厳重な管理をされてる気分になったことがある。

院内クラスター起こったら大変だもんね~特にこの病棟は。

今回の骨髄移植、入院してからの三ヵ月間、様々なサポートがなければ耐えられなかった。肉体的にも精神的にも。

片道一時間の電車で週二で届け物をしてくれた母。

様々な便利アイテムを差し入れしてくれた父。

心配してるのかしてないのかわからない妹。

常に容態に気を配って適切な対応をしてくれた血液内科の先生方。

その都度、薬を調整してくれた薬剤科の方々。

その他の科の先生方。

そして何より看護師さんには本当にお世話になりました。

病気との戦いはまだこれからも続くけど、

入院は絶対しない。二度としてたまるものか。暇で暇で退屈なんだよ!

俺は再発もしないし!他の癌にもならない!

心の叫びはこの辺で。

振り返れば振り返るほど一人の力では乗り越えられなかったことを痛感します。

移植自体は幸運にも大きな副作用もなく過ごせたことにも感謝を忘れてはならないなと終わりが近づいてから思います。ここにたどり着くまではそんな心の余裕はなかったわけですが。

最後に、自分を身近で支えてくれた人達や医療関係者の皆様、コロナ渦にも関わらず献血に参加してくださっている皆様に感謝を。

ありがとうございました!